藤沢周平 「海鳴り」 (上)(下)

見たり、読んだり、思ったり。

藤沢周平 「海鳴り」 (上)(下)

「海鳴り」(上)(下)
著 者 藤沢周平 (ふじさわ しゅうへい)
発行所 文春文庫


 物語の舞台は江戸。

 奉公人から叩き上げ、一代で身代を築いた紙商・小野屋新兵衛だが、その家庭は冷え切っていた。心の通じぬ妻と放蕩息子の跡取り。

 紙問屋の寄合いを終えた新兵衛は、鳥居の柱の陰にうずくまった女が風体のよくない男たちに取り囲まれている場に出くわす。

「おや、丸子屋さんじゃありませんか」
 女は丸子屋のおかみおこうだった。

 新兵衛が思わず大きな声を出すと、男たちはあっさりとはなれて行った。

 おこうは寄合いでむりやりに酒を強いられ悪酔いして倒れてしまったらしい。介抱しようにも黒江橋そばの船宿までは遠すぎ、空き駕籠の姿も見えない。連れ込み宿のような店だが近くにあったことを思い出し、新兵衛はおこうを抱え起こした。

 新兵衛とおこう、それぞれが家庭を持つ商家の主とおかみ。
 道ならぬ恋のはじまり。

 新兵衛は芝の帳屋桝屋からの帰り道、本降りの雨の中、商家の暗い軒下で雨宿りしているおこうに出遭う。

「おこうさん、どうしました?」
「ああ、小野屋さん」

 おこうは姑と喧嘩し、実家に泊まると言って家を出たものの、兄夫婦と諍いをし、今夜は帰る家がないという。新兵衛が向かったのは、商談の行き帰りによく見かけた船宿。

「新兵衛さん。あたし、こんなことをひとに言うのははじめてですけど、あたしが嫁になったころ、丸子屋は商いが傾いていて、あたしの持参金で立ち直ったのですよ。その後も、亡くなった父は、小出しに丸子屋を援助していました」

「そのことをどうこう言うわけではありませんが、実家がつぶれて父が亡くなると、あたしに対する姑と主人の態度が、手のひらを返すように変わりました。姑も主人も、とてもつめたいひとなのです」

 新兵衛がはじめて知ったおこうの事情。
 その後、新兵衛とおこうは初めて肌を合わすことになるのだが、「解説」を書いた丸元淑生の絶妙な鑑賞。

 「新兵衛さん、待ってください」

 おこうのことばにつづく十行あまりの文章は、おそらくわが国の小説史に残るであろう比類のない美しさをもっているが、その十行を経てこの小説は一挙に情欲の世界を超える。とはつまり恋愛小説の骨格をもつわけで、有夫の女と通じた男は引き回しのうえ獄門に懸けられ女も死罪になる、という時代であるから、それはスリラーの骨格を備えることでもある。
 見事なのは作者が、さながら斜面に巨石を据える如くに、張り巡らしてきた伏線の上にこの二人の恋愛を置いたことで、物語はそこで加速を得る。石が動きはじめるにつれて展開はダイナミックになり、感動的な結末に至るまで巻を措かせぬ緊張を高めていく。(下巻291ページ)

 誰が如何なる目的で新兵衛を陥れようとしているのか。主旋律は世間的に許されぬ江戸町人の道行きながら、そこに至るまでの道筋はミステリー展開そのもの。

 丸元淑生が絶賛した箇所を抜き出しておくと、

「新兵衛さん、待ってください」
 押し殺した声で言うと、おこうは新兵衛の手をおしのけて畳にすべり降りた。そしてあわただしく裾を合わせて坐ると、半ばとけて畳に流れている帯を手もとに引き寄せた。帯をつかんだまま、おこうはうなだれている。
 息を殺して、新兵衛はおこうを見まもった。すると、おこうの手がまた動いた。おこうは身体から帯をはずして畳んでいる。そしてきっぱりと立つと、夜具のそばに行った。
 おこうはそこで、さらに腰に巻きついている紐をはずし、着物を脱ぎ捨てると、長襦袢だけになった。その姿のまま、新兵衛に背をむけてひっそりと坐った。新兵衛は立って行くと、跪いて背後からそっとおこうの肩を抱いた。こわかったら、ここでやめてもいいのだよおこうさん、と新兵衛が思ったとき、おこうが振り向いた。おこうは奇妙なほどにひたむきな顔で、手をのばすと新兵衛の羽織の紐をといた。

1987年10月10日 第1刷



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[ 2018/06/05 22:00 ] 国内の作家の本 藤沢周平 | TB(-) | CM(0)
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散歩すると猫に会う。
いつもの場所にいつもの猫がいるのだが、人間とは付かず離れずの関係を保ちつつ生きているように思われる。

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