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嵐山光三郎 「悪党芭蕉」

見たり、読んだり、思ったり。

嵐山光三郎 「悪党芭蕉」

「悪党芭蕉」
著 者 嵐山光三郎(あらしやま こうざぶろう)
発行所 新潮社


 本書の発行は2006年4月25日。2017年4月25日に発行された著者の「芭蕉という修羅」と較べると、芭蕉の深川隠棲の謎など芭蕉の境涯的なものについては古色蒼然という感じを否めないが、芭蕉の俳諧に対する考え方、芭蕉が主催した歌仙、発句に対する心構えなどについては十分な示唆を得ることができる。

 例えば、51ページからの、4「作意」を消せるか。

 其角の『いつを昔』(元禄三年)に出てくる巴風の句「下臥につかみ分ばや糸桜」を例にあげながら、

 芭蕉が、「其角はどういうつもりでこんな句を入集したのだろう」と問うので、去来は「つかみあげたい気分をうまく表現している」と答えた。すると芭蕉は「謂い応せて何かある」(描写しつくして、何になるのだ)と批判した。
 これは巴風の「作意」を批判する形で其角撰に「作意」を見ている。「結論」を詠み切ってしまうのは、連俳の発句としてはあとがつづかないと難じている。(53ページ~54ページ)

 その後、去来の句「手をはなつ中に落ちけり朧月」を例にあげて、

 この句は、堅物の去来としては、はなやかで、やわらかい。しかし芭蕉は「あまり上手に言っていて、まことめかしく作りあげている。其角は『謂い応す』のがよくなく、去来の句は『謂いまぎらす』(表現でこねあげる)」ところに作意がある、とみた。(54ページ)

 俳諧は共同の文芸。そのうちの発句を独立させたものが、現在の俳句。俳句の場合、念頭に置かなければならないのは、その俳句を読んでの読者の自由な連想。とすれば、現代俳句でも『謂い応す』ことのないように、『謂いまぎらす』ことのないようにすることが俳句作者としての大切な心がけ。そうでないと、出来上がったものは作者本人だけで完結してしまう俳句もどきになってしまう。

 以前このことを、大峯あきらは毎日俳壇に寄せた文章で次のように表現している。

 詩作にとっての敵は、知的分別による操作や装飾である。これには意識的なものだけでなく、無意識的なものもある。「する句」でなく「成る句」をすすめた芭蕉は正しい。(毎日新聞「毎日俳壇」大峯あきら)

 俳句を成立させるために大切なことは、「する句」でなく「成る句」を心がけること。

2006年4月25日 発行

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[ 2017/09/15 14:00 ] 国内の作家の本 嵐山光三郎 | TB(-) | CM(-)
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きどのひつじ

Author:きどのひつじ
散歩すると猫に会う。
いつもの場所にいつもの猫がいるのだが、人間とは付かず離れずの関係を保ちつつ生きているように思われる。

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